平和教育

「平和でしずかな空をとりもどしたい」

       ~小松基地爆音訴訟~

会場がボランティアセンターとなったため中止(延期)としました

8月11日(木)10時

第一地区コミュニティセンター

(小松市白江町ツ108)

講師 池田喜久さん

*どなたでも参加することができます

 

 

平和教育研究部会の角三さんが取材を受け戦争加害の問題が紹介されます。

1 放送する局  NHK

2 放送予定日 7月21日(木)夕方18:10からのローカルニュース「かがのとイブニング」

3 内 容 ① 七尾への中国人強制連行  ② 遺骨をあずかった大乗寺さん

     ③ 中国人と交流した七尾の人たち ④ 一衣帯水碑…七尾での追悼行動など

*映像ライブラリー「七尾と戦争」で公開講座が視聴できます。

七尾への中国人強制連行について

 太平洋戦争末期に、日本は閣議決定で強制連行(「内地移入」)政策を進めました。日本各地の鉱山や炭鉱、ダムなどの土木・建築現場、港湾や造船所など135の事業場におよそ4万人の中国人が連行され、働かされました。そのうち、およそ7千人が日本で死亡しています。

 石川県の七尾港にも399人の中国人が連行され港湾労働に従事させられました。苛酷な労働、食糧・栄養不足、不衛生な環境の下で、死亡者15人、失明者64人が出ています(事業場報告書)。

 日本の敗戦後、中国人は要求闘争を行い、七尾の町は大混乱に陥りました(「七尾華工事件」)。1945年10月に中国人は七尾を離れ12月上旬には天津へ着きます。その後、1977(S52)年には一衣帯水碑(日中友好碑)が建立され、毎年8月15日に追悼の法要がいとなまれています。

                                                                     平和教育研究部会の研究員である角三外弘さんはHPでも紹介した七尾でのフィールドワークや公開講座の講師を務めていただいたり、平和に関する報道などにも関わってこられました。この度、これまでの調査をまとめ出版されましたので総研では平和教育の資料として購入し県教組各支部の平和教育担当者のところに置く予定です。貸し出しや購入の希望がありましたら総研までご連絡ください。

TEL 076-263-2368

E-mail : info@sokenishikawa.com

北陸中日新聞 左をクリックして拡大記事

 

 

 

 

平和教育研究部会では小松市の湯浅治男さんからお話を伺った。湯浅さんは1932年に生まれ今年90歳になられるが、13歳の8月に終戦を迎えた。小松からも富山や福井の空襲での爆弾の投下や真っ赤になった空を見ることができた。爆撃機は白山の上空を通過するため、落下兵への竹やりを準備していたが小松基地から離陸する戦闘機は迎撃でなく避難のためであったことを後から知った。近所の子が小松基地にグライダーの訓練に行っていたが、京都の山から大阪湾の敵艦に突っ込むためであった。戦争が終わり学校が変わってしまったことに、これまで教えられてきたことに騙された思いで反発していた。高校の定時制の生徒が書いた「疑えよ諸君」という張り紙を見て、先生も同じだったのかという気持ちに変わった。上の兄は大学生の時に海軍の戸塚に軍医として召集された。終戦後は小松で医療に携わっており福井地震のときには救援にも行っていた。数年後に結核を患い抗生物質が手に入らず母と共に命を失った。戦争によって本人や周りの人たち多くの人の運命が変えられてしまった。当時の貴重な話を聞くことができたが、このような経験を残していくことは喫緊の課題である。

平和教育部会の角三外弘研究員からの次のお知らせがありました。

NHKテレビ(金沢局)が「能登と戦争」を取りあげます。放送予定日などは次のようになっています。

8月12日(木)18:30のニュースで5~6分

①富来沖に停泊していた輸送船が潜水艦の魚雷攻撃で沈没した事件

②敗戦直後の七尾湾での第二能登丸の触雷事件

すでにWEBで番組と同内容のものが公開されています。下記のサイトです。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210804/k10013175771000.html

*七尾市の平和展が8月3日~13日まで、七尾駅前パトリア4Fフォーラム七尾で開催されます。紙芝居「第二能登丸のそうなん」も展示されます(4,8,9,11日はフォーラム七尾の休館日のため、展示も休み)。

以下は放送内容の説明です。

富来沖で輸送船が魚雷攻撃を受けて沈没した事件について

 1945(昭和20)年6月12日、富来沖に停泊していた輸送艦4隻(謙譲丸、陽山丸、瑞興丸、咸鏡丸)のうち、咸鏡丸を除く3隻がアメリカの潜水艦2隻による魚雷攻撃を受けて沈没した。輸送艦の乗組員30人が犠牲になった。アメリカの潜水艦は、太平洋戦争開戦後から太平洋側へ入ってきていたが、1945年になると日本海側の港湾へ物資へ運ぶ船をねらって潜水艦による魚雷攻撃をする。その一例が富来の事件であった。日本海軍はアメリカの潜水艦が日本海へ侵入するのを防ぐために、1945年3月に、日本海の入口にあたる対馬海峡に機雷堰を敷設し、何重もの阻止線を作った。しかし、アメリカの潜水艦は機雷堰をかいくぐって日本海へ侵入した。

日本周辺の日本軍とアメリカ軍の機雷敷設

1 日本軍の機雷は繋留・触発機雷

 1941年11月から日本軍は海域や港湾の防備のために機雷を敷設した。日本軍が敷設したのは海底の繋維機(アンカー)から繋維索(ワイヤ)で繋がる繋留(繋維)機雷である。触発機雷といわれ、船で敷設したものである。

2 米軍投下の沈底・感応機雷 

いっぽう、米軍が日本周辺に機雷を敷設したのは1945年3月以降であり、瀬戸内海と関門海峡が多い。アメリカ軍は、機雷投下を「飢餓作戦」と呼んだ。中国や南方から日本国内へ物資が入るのを止めるのがねらいであった。そのために、関門海峡や瀬戸内海に艦船を入れないように機雷を敷設したのである。米軍は飛行機からパラシュートをつけて投下し海底に沈めた(沈底機雷)。機雷は磁力や音響を感知して浮上し艦船を爆発させるのである。感応機雷とも呼ばれるゆえんである。こうした方法で米軍は、関門海峡や瀬戸内海に集中的に機雷を敷設した。

3 瀬戸内海から日本海側の港湾へ 米軍の機雷投下作戦

 瀬戸内海が封鎖されると、艦船は日本海側へ向かわざるを得ない。敦賀(福井県)や七尾、伏木、新潟、酒田、船川(秋田県)などの港湾に機雷が敷設されるのである。 いっぽう日本軍が米軍の艦船の侵入を防ぐために機雷を敷設したのは主に太平洋側である。米軍は太平洋側から攻撃すると考えていたからであろう(左の米軍と日本軍の機雷敷設地図を参照)。1945年になると日本海にも米潜水艦が侵入するようになり、対馬海峡に機雷堰を敷設する。しかし、アメリカの潜水艦はその機雷をくぐって対馬海峡から日本海へ侵入し、富来の輸送船事故などが起きている。

 

 

平和教育部会では昨年、9条の会小松の池田さんを講師として小松基地爆音訴訟に関しての公開研究講座を予定していましたが、新型コロナ感染予防から今年に延期しています。

小松基地へは2025年までに、F35A戦闘機が4機配備される計画になっています。現在使用しているF-15戦闘機より大型であり騒音も1割以上大きい111デシベルを超えるようです。また、レーダーに捕捉されないステルス性があり、航続距離5千㎞以上の戦闘能力から専守防衛ではなく敵基地攻撃が可能な基地となりえます。

平和教育研究部会では角三外弘研究員から2月14日に亡くなられた七尾の半田昭也さんの取り組みが紹介された。半田さんは1970年代から県教組の教文部長と書記長を務められており、1974年の定期大会で「8月6日を全校登校日として平和教育授業を行う」とする決定がなされた。それまでは8月13日が給料日で全校登校日となっていた。1973年から広島で全国平和教育シンポジウムが開催され、石川県から各支部の代表が参加し文学・音楽教材や『はだしのゲン』などを使った平和教育の取り組みを学び支部に還流していた。

1981年に石川県教組は平和教育専門委員会を設置し各支部の取り組みを交流した。8.6の取り組みは1980年代には90%近くになった。

2019年度 フィールドワーク・公開研究講座

アジアの人たちとの友好・連帯を求めて


 

 

 

 

   
 
      6月30日、七尾鹿島労働福祉会館にて、平和教育部会の公開研究講座が開催されました。講師として部会研究員でもあり、長年にわたり地元七尾の戦争の歴史を掘り起こしてきた角三外弘さん(七尾強制連行問題を調査する会代表)にお願いしました。学習会には教育総研研究員、組合員に、地元「九条の会」のみなさんも加わり、計47名が参加しました。
 角三さんはまず、「第二能登丸のそうなん」についてふれ、石川県には大きな空襲被害がないとされているが、この七尾湾には米軍が多数の機雷を敷設した。敗戦直後の1945年8月28日に、「第二能登丸」という挽き船がこの機雷の爆発により、28人が死亡した。その事実を、角三さんは現職の時から仲間と調査を続け、当時子どもたちが制作したジャンボ紙芝居が2014年になり市が主催する平和写真パネル展に展示され、広報にも掲載されたことが紹介されました。
 また、角三さんは太平洋戦争末期、七尾港にも強制連行により399人の中国人が荷役として働かされていたことを長年にわたる調査で明らかにしてきました。生存者を訪ねて中国へ渡り、2005年からの訴訟支援にも取り組みました。調査の中で当時の過酷な労働や食糧不足の中での厳しい生活環境により15人が死亡、64人が失明したことを明らかにしてきました。訴訟は2010年に最高裁での敗訴となり、生存者も少なくなりましたが、一方では日中友好協会が「一衣帯水碑」を建立(1977)するなど、今日まで友好関係が続けられているとのことです。
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